Patek Philippe, Czapek Company

ケ・デ・ベルクの約束 - パテックとチャペック、二人がともに描いた美しき共同創業の時代

高級時計の歴史には、あとから振り返ると不思議なほど美しく見える“短い季節”があります。

Antoine Norbert de Patek(アントワーヌ・ノルベール・ド・パテック)後のパテックフィリップ社 と François Czapek(フランソワ・チャペック) 後のチャペック社が共同作業を営んでいた約6年も、まさにそんな時間だったのではないでしょうか。


今日、私たちは Patek Philippe という完成された名前を知っています。けれど、その出発点にあった社名は Patek, Czapek & Cie でした。
パテック フィリップ公式は、1839年に Antoine Norbert de Patek が Franciszek Czapek と Patek, Czapek & Co. を設立したことを自社史の重要な起点として掲げ、さらに “The founding act of the company between Patek and Czapek, 1839” という創業契約書まで紹介しています。

 この最初期の物語が胸を打つのは、単なる社名の変遷ではなく、 亡命者同士の出会い、共同創業、短くも濃密な協働、そして別々の成功 が詰まっているからです。
しかも、その関係はどちらか一方が主役で、もう一方が添え物だったわけではありません。
パテックが事業の地平を切り開き、チャペックが時計作りの核を支えた。
二人の共同作業があったからこそ、のちの高級時計史に残る二つの系譜が生まれた――そう考えると、この前史はただの“序章”ではなく、 それ自体が十分に称えられるべき、美しい創業の時代に見えてきます。

 

詳細年表|Patek と Czapek、その出会いから分岐まで

まず流れをつかみやすいように、François Czapek と Antoine Norbert de Patek の関係を年表で整理しておきます。
最初にこの流れを押さえておくと、その後の作品やエピソードがぐっと分かりやすくなります。

出来事 内容 ポイント
1811年 François Czapek 誕生 チャペックは1811年、ボヘミア生まれとされます。 のちにポーランド系亡命者社会の中で活動し、時計師として名を上げていきます。
1812年 Antoine Norbert de Patek 誕生 パテックは1812年、ポーランドで生まれます。 のちのPatek Philippeの礎を築く事業家ですが、出発点は亡命者のひとりでした。
1830〜1831年 十一月蜂起 二人とも、ポーランド独立運動の大きな流れの中に置かれていました。 後年の時計に政治的・亡命者的な意識がにじむ背景には、この時代経験があります。
1832年ごろ Czapek ジュネーブへ チャペックは亡命後、ジュネーブに拠点を移していきます。 ここから彼は時計師としての人生を本格化させます。
1830年代前半 Patek ジュネーブで活動 パテックはジュネーブで高級時計商として活動を始めます。 この時点のパテックは、優れた時計を見抜き、顧客へ届ける商人的資質が際立っています。
1836年ごろ Patek と Czapek が出会う 二人はジュネーブで出会い、親しくなったとされます。 この出会いが、のちの共同創業の出発点になります。
1839年5月1日 共同創業 二人は Patek, Czapek & Cie を設立します。 パテック フィリップ前史における最重要の日付です。後年の公式資料でも、ここが大きな起点として扱われます。
1839年以後 Quai des Bergues の工房 工房はジュネーブの 29 Quai des Bergues に置かれました。 現代のCZAPEKが「Quai des Bergues」をコレクション名に用いるのは、この歴史的出発点へのオマージュです。
1839〜1845年 共同時代 Patek は販売・顧客開拓・事業運営を担い、Czapek は製作・調整・技術の側を担ったと考えられます。 この時代の会社は小規模ながら密度が高く、年約200本前後を製作したとされます。
1841年 No.489 Patek & Czapek à Genève 署名の希少個体が残ります。 この個体は、Czapek本人が仕上げた痕跡が語られる点でも特別です。
1842年 No.535 Patek, Czapek & Cie 名義の初期の stem-winding 懐中時計が現れます。 まだAdrien Philippe以前の段階で、すでに“鍵を使わない未来”への予感が見えています。
1843年 No.894 完成 “Patek i Czapek w Genewie” 署名の商会作品が完成します。 この時計は個人作家名よりも、共同時代の商会作品としての歴史性が重要です。
1844年 No.894 売却 No.894 は 1844年11月12日に Jan Ledochowski に売却されます。 裏蓋の政治的図像からも、亡命ポーランド人社会の歴史意識が読み取れます。
1844年 Patek が Philippe に注目 パリ産業博覧会で、Patek は Jean Adrien Philippe の鍵なし巻上げ機構に出会います。 これがのちの大きな分岐のきっかけになります。
1845年4月18日 共同体の終わり Patek と Czapek は不一致により会社を解消します。 ここで同じ起点から二つの系譜が分かれます。
1845年以後 別々の道へ Patek は Jean Adrien Philippe と結びつき、のちの Patek Philippe へ。Czapek は Juliusz Gruzewski と組み、Czapek & Cie を発展させます。 ここから先は、二人がそれぞれ別の伝説になっていく後半戦です。
1850年 Czapek の著述 Czapek はポーランド語の時計学書を刊行します。 チャペックが時計師であるだけでなく、知識を言葉に残す人物でもあったことを示します。
1854年ごろ ワルシャワ展開 Czapek & Cie はワルシャワにも拠点を持つようになります。 チャペックが独自ブランドとして存在感を強めていく時期です。
1855年ごろ No.7541 Czapek & Cie 名義で、ナポレオン3世のために作られたとされる懐中時計が残ります。 ここでチャペックは、共同創業者ではなく独立した高級時計商として花開いています。
1860年ごろ Place Vendôme 23 Czapek はパリ Place Vendôme 23 に店を構えたとされます。 Quai des Bergues の若き共同創業者は、ここで別の伝説を築いていきます。


パテック フィリップは、最初から「パテック フィリップ」という名前だったわけではありません。
はじめは Antoine Norbert de PatekFrançois Czapek が組んで、 Patek, Czapek & Cie という会社を1839年にジュネーブで始めました。役割をわかりやすく言うと、パテック = 事業を広げる人、チャペック = 時計を作る人
というイメージです。

のちに二人は別れ、パテックは Jean Adrien Philippe と組んで現在の Patek Philippe へつながる道を進み、チャペックは Czapek & Cie として独自の高級時計ブランドを築きました。

ただ、この話を単なる「分裂の前史」として読むのは少し惜しい気がします。
なぜなら、1839年から1845年までの共同時代そのものが、すでにとても魅力的だからです。
パテックは商才と視野で商会を押し広げ、チャペックは時計師としての力でその中身を支えた。
二人の協働は短くても、互いの長所がかみ合ったことで、後世から見ても特別に美しい共同作業として浮かび上がります。

Quai des Berguesという、神話の始まりの場所 - 29 Quai des Bergues

この物語の入口として、どうしても魅力的なのが Quai des Bergues(ケ・デ・ベルク) です。
Patek, Czapek & Cie の初期の拠点は、ジュネーブの 29 Quai des Bergues に置かれていました。
さらに現代の CZAPEK は、自らの主要コレクションのひとつに “Quai des Bergues” という名を与えています。
つまりこの地名は、単なる住所ではなく、パテックとチャペックがまだ一つの未来を見ていた時代の象徴なのです。冒頭の画像と殆ど変わっていないのが比べてわかります、」

普通、歴史はあとから物語になります。けれど Quai des Bergues という名前は、すでにそれだけで一つの場面を持っています。
川沿いのジュネーブ、亡命者たちの新しい出発、そしてまだ “Patek Philippe” になる前の Patek, Czapek
この住所は、ブランド以前の熱を閉じ込めた、高級時計史の序章です。

No.87 - 商会としての誇り

この共同時代の魅力は、書類だけではなく、実際の時計が残っていることです。
もっとも象徴的なのが、Antoine Norbert de Patek の私物として知られる No.87 でしょう。
これは “Patek, Czapek & Cie, Geneva, No. 87” 署名入りの懐中時計で、現在は Patek Philippe Museum, Inv. P-01 に所蔵されています。

創業者自身が、自らの共同商会の名を刻んだ時計を持っていた。
この事実だけで、No.87 は単なる古時計ではなくなります。
そこには、これから世界的ブランドになっていく以前の、商会としての誇りが宿っているように見えます。
まだ歴史ではなく、まだ伝説でもない。けれど確かに、当人たちにとっては誇るべき出発点だった。
No.87 は、そんな最初期の空気を今に伝える一本です。

No.535 - 技術の予感

もう一本、読み物として抜群に面白いのが No.535 です。
これは 1842年製の Patek, Czapek & Cie 名義の非常に初期の stem-winding 懐中時計で、 イエローゴールドのオープンフェイス、ローマ数字、シリンダー脱進機、スモールセコンドという端正な姿をしています。

けれど本当に大事なのは、その見た目以上に stem-winding、つまり鍵を使わない巻上げ機構の早い例であることです。
多くの人は、鍵なし巻上げと聞くと Jean Adrien Philippe を思い浮かべるでしょう。もちろんそれは大筋で正しい。
ただ、No.535 を見ると、その直前の世界が立ち上がってきます。
つまり Patek–Czapek の共同時代そのものが、すでに“鍵を使わない未来”に触れていたのです。

これは完成された革命の時計ではありません。むしろ革命の前夜にある時計です。
だから No.535 には、後年の完成形とは別種の魅力があります。
そこにあるのは、技術の予感です。

1842 Patek, Czapek & Cie No. 535

No.894  亡命者たちの歴史意識

共同時代の時計で最も物語性が濃いのが、No.894 かもしれません。
これは “Patek i Czapek w Genewie, No. 894” と署名された18Kゴールドのオープンフェイス・シリンダーウォッチで、 1843年完成、1844年11月12日に Jan Ledochowski に売却されたことが伝えられています。

重要なのは、これが個人作者の特定された一点ものというより、Patek–Czapek共同時代の商会作品として理解すべき時計だということです。
その魅力は、個人作家名よりも、この時計が背負っている歴史にあります。
ケースバックの図柄は “La déchéance de Nicolas”「ニコライの失墜」を主題とし、François le Villain の版画に基づくとされています。
ここには単なる装飾を超えた政治的含意があり、亡命ポーランド人であったパテックとチャペックの時代背景を強く思わせます。

だから No.894 に宿っているのは、個人作家性よりもむしろ、亡命者たちの歴史意識です。
No.87 には商会としての誇りがあり、No.535 には技術の予感があり、No.894 には歴史感情の熱がある。
この三本を並べると、共同時代の輪郭がいっそう立体的になります。
Patek i Czapek w Genewie, No. 894

1845年、友情と共同体は終わる

しかし、こうした共同時代は長く続きませんでした。
1845年4月18日、Patek と Czapek は不一致により会社を解消します。
ここで物語は分かれます。Patek はやがて Jean Adrien Philippe と結びつき、現在の Patek Philippe へつながる道へ進む。
一方 Czapek は、Juliusz Gruzewski と組んで Czapek & Cie を名乗り、独自のブランドを築いていきました。

けれど、この分岐を単なる別離としてだけ見るのはもったいない気がします。
なぜなら、二人が一緒にいた時間そのものが、十分に価値のある創造の時間だったからです。
パテックは視野で商会を前へ進め、チャペックは技術でその名に実体を与えた。
この共同作業があったからこそ、のちに片方は Patek Philippe へ、もう片方は Czapek & Cie へと、それぞれ別の伝説になっていったのです。

Place Vendôme 23 - 別の伝説の始まり

共同時代の後、Czapek は別の華やかな世界へ進みます。
たとえば No.7541 は、“Czapek & Cie. à Genève et Paris, Place Vendome 23” と署名された、 ナポレオン3世のために作られたとされる懐中時計です。
ここに至ると、Quai des Bergues の若き共同創業者は、すでに Place Vendôme の高級時計商として別の伝説を築いています。

つまりチャペックは、パテックの前にいた人物であるだけではありません。
彼自身もまた、独立した高級時計史の担い手でした。
だからこそ、パテックとチャペックの共同時代は、勝者と敗者の話ではなく、二人の才能が一度重なり、その後それぞれの場所で花開いた物語として読むのがいちばん美しいと思います。

本記事はパッテクフィリップ公文書、チャペックの1800年代の公文書から本当の歴史を、を伝えるための記事です。

もし Patek Philippe の前史を最も魅力的に感じられる入口をひとつ挙げるなら、やはり Quai des Bergues でしょう。
そこには住所があり、創業契約があり、商会の名を刻んだ No.87 があり、未来を予感させる No.535 があり、亡命者たちの歴史意識を宿した No.894 がある。
さらにその先には、Place Vendôme 23 で花開く Czapek & Cie の華麗な後半生がある。

パテックとチャペックの6年は、ただの古い社名ではありません。

それは高級時計史のなかでも、もっとも人間臭く、もっとも美しい“序章”のひとつです。
そして何より、二人の共同作業そのものが、本来もっと称えられてよい創造の時間だったのだと思います。

パテックがいたから広がり、チャペックがいたから形になった。
その短くも濃密な協働があったからこそ、後世の私たちは、これほど豊かな時計史を楽しむことができるのです。


本記事の作成にあたっては、以下の海外公式資料・公式所蔵情報を参照しました。

補足資料

以下は文書は現存作品・個体番号・売却記録の確認に用いた主要公開資料です。

参考文献

 

チャペック正規取扱店コントワーヌ
〒151-0053 東京都渋谷区代々木4丁目28-7西参道テラスE1
電話:03-3299-8008
公式WEBサイト:https://www.contevanou.com/
Google MAP

ブログに戻る

コメントを残す

コメントは公開前に承認される必要があることにご注意ください。